投稿日 2018-01-07 / 最終更新日 2021-01-03
『いつか』〇〇へ行きたい。
『いつか』〇〇に会いたい。
『いつか』やろう。
日々生きていく中で、「いつか○○しよう」。
そんなことがたくさんある。
勿論生活をしていく中で、全部が全部叶えられる訳ではない。
仕事とか、家庭の事情とか、体の調子とか、お財布事情とか。
そういったもので叶えられないことだってある。
だからそのうち出来れば良いな、という願望も含めて「いつか○○しよう」と言う。
10代・20代の頃は真剣なものからうっすらな願望まで含めて『いつか』がたくさんあった。
やれたらいいな、会えたらいいな、行けたらいいな。
だけど歳を重ねていくと気付く。
『いつか』は突然なくなるのだ。
私自身は10代前半頃から『いつ死んでも構わないように生きよう』という気持ちで毎日を生きている。
いくつかの経験からそう思うようになったのだが、20歳前後くらいまではとても暗い性格だったので、割と後ろ向きな気持ちでそう思うことの方が大きかった。
言葉通りの覚悟と本当の意味で『いつ死んでも構わないように(いい人生だった!と思えるように)生きよう』前向きになったのは東日本大震災からだった。
それまではあくまで“自分主軸”で『自分が平均寿命まで健康である前提』で『周囲も歳を取ったり変化する』という当たり前のことをまったく意識していなかった。
行きたい場所はいつまでもあると思っていたし、会いたい人はいつまでも元気だと何の根拠もなく思っていた。
今世の中にあるものが『明日にはなくなっているかもしれないもの』だとは考えてもいなかった。
やりたいことがやれなくなること。
行きたい場所が明日もあるとは限らないこと。
会いたい人が明日も元気だとは限らないこと。
そして――自分自身にも、明日何が起こるのかわからないということだ。
昨年私は婦人科系の病気が発覚した。
命に別状はなく日常生活にもさほど影響はないが、患部がもう少し成長すれば手術せざるをえず、手術前後は安静にできる状況を作らなくてはならない。
今後も手術しないで良い状況がずっと続くかもしれないし次回の検診で手術することになるのかもしれないが、日常生活で予防やこれといった治療はなく、かといって今の段階ではメスを入れない方が良いとのことだ。
命に別状がないといっても、手術になるか否かを定期的に気にして過ごさねばならないというのはもうそれ自体今までと同じ感覚では過ごせないということ。
私の体の主人は私なのに、体は私の都合など聞いてくれないのだ。
残念ながら、なかなか折り合いがつかないものなのである。
私はまだまだ見たいものも知りたいことも体験したいことも山のようにある。
全部が全部叶えられる訳ではないだろう。
大きなものも、小さなものもあるだろう。
もしかしたらやった後で「やらなければよかった」と思ってしまうものもあるだろう。
けれど、何もかもが『今日と同じ』な日は絶対にない。
月並みな言葉だが、やはり今までの人生を振り返れば『やった後悔よりもやらなかった後悔』の方がずっと大きく残ってしまうのだ。
やりたいこと。行きたい場所。会いたい人。
もしも明日自分や周り、世の中に何かが起こった時。
一つでも多くのものが「やっておいて良かった」であるといい。
『いつか』は『いま』叶えていこう。
2018年、一つでも多くの『いつか』が叶えられますように。