投稿日 2019-08-04 / 最終更新日 2021-01-02
!この投稿は映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の物語・ラストのネタバレを大いに含みます。ゲーム『ドラゴンクエスト5』のネタバレも多少あります。ほぼ辛口否定的意見しかないで閲覧にはご注意ください。
映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を観てきた。
ドラゴンクエストシリーズはオンラインの10を除き、リメイクも全てプレイ、何周もしてきたヘビーユーザーの私である。
ドラクエのキャラクターが3DCGで動く!あの世界に入れる!ということで映画の公開をめちゃくちゃ楽しみにしていた。
ちなみに私は基本的に原作の実写化やアニメ化、リメイクには大いに賛成である。
作品というのは愛されなければ残っていかない。当時爆発的人気を誇っても、そのとき触れたオタクだけのものにしていたら作品は尻すぼみになって最終的に消えてなくなってしまうだろうから。
だからいくら“自分にとって気に食わない”ものだったとしても、その作品で感動し原作に触れる人が出れば、何十年経っても、それこそ自分の死後も好きな作品が残って親しまれていくと思う。
それはとても喜ばしいことだ。
というわけでキャラクターやストーリーが自分にとって気に入らなかった・つまらない程度だったら「まあ私には合わなかったな~」くらいで、否定的意見を殊更に主張することはなかった。
だがこの作品だけは本当にダメだったし、許せなかった。
「ドラゴンクエスト」という世界そのものをめちゃくちゃにされた、と思ったからだ。
映画を観ながら何度も途中で帰ろうかと思ったし、鑑賞後は落胆と怒りで声を上げたい一心になるのを堪えながら帰路についた。
Contents
「ドラゴンクエスト」でこれをやる必要はどこにもなかった
否定的感想では大体書かれているが、何よりもダメだったのがラスト10分で突然ぶち込まれたメタである。
メタ自体は創作物でよくある手法だと思うし、小説などでは「あーそうきたかー!」と楽しめることもあるのでメタそのものは否定的ではない。
むしろ巧みであればあるほど作者や制作側の“運び”の凄さ・上手さに感銘を覚える。
だがそれは、その作者(制作側)のオリジナルストーリーであるからこそ成り立つし際立つ。
ラストの大どんでん返しを狙って最初からストーリーに仕掛けが組み込まれ散りばめられているからだ。
何十年と愛され続いている「ドラゴンクエスト」という大看板を背負い、子ども時代からゲームを遊んできた大人たちや夏休みでワクワクしている子どもたちが
「…え?」
となるようなラストを、作り手が「面白いでしょ?見たことないでしょ?」と独りよがりなストーリーに仕立てている、最悪な映画であった。
私が観た回はドラクエをずっと遊んできたであろう同世代の方々ばかりだった。
だから多分、序盤から後半まで、話の速さには驚いたものの、懐かしさとか楽しさとかワクワクで劇場が『楽し』かった。
が、ミルドラースの正体が出た途端。
空気が凍り付いた。
あんな経験なかなかできない。
パルプンテとか凍てつく波動とか言われているが、私の場合ザラキを食らってしまったようなヒンヤリした感覚になった。大げさではなく冷や汗がでて、息ができなくなるかと思った。
ユアストーリーは“あなたの物語”ではないのか?
ドラクエの最大の魅力は「自分自身が勇者(主人公)となり、物語の世界を冒険」できることだ。
その感覚はスペクタクルツアーのようなミュージカルでも、脱出ゲームでも、USJアトラクションでも、「自分が主人公」になれるよう見事に設定し作り込まれていた。
ドラクエ世界の神様である堀井さんを始め、ドラゴンクエストのスタッフの皆さんが「プレイヤー=勇者(主人公)」であることを一貫して大切にしてきたからだと思うし、ゲームの物語や人生を“体験”できるよう丁寧に丁寧に、それぞれのイベント等の制作側も世界観を理解し大切に準備してくれたからだと思う。
王道だからこそだからこそ何十年も愛され、子どもから大人まで夢中になれるのだ。
だからこの映画「ユアストーリー」も主人公を自分に置き換えて、映画の世界を冒険している感覚にしてくれる作品に違いないと。
父親やビアンカとの冒険をし、父親との悲しい死別があり、意志を継ぎ、唯一無二の親友ヘンリーと過酷な奴隷時代を耐え。
“世界を救える勇者”が自分ではないことに絶望しながら勇者に出会うべく旅をする。
花嫁選びに迷い、伴侶との人生が始まり、子どもが生まれたことを喜び、親と子との離別と悲しみ再会を愛おしく思うような。
そういう「あなた(私)の物語」を期待していた。
だが、そうではなかった。
「あなたの物語」は「主人公になって世界に入り込んだ自分」ではなく、リアルな現実でいい歳になった大人がVRゲームの世界に浸り、ウイルスに「いい歳してゲームしてんじゃねえよ大人になれよ」と全否定されるという最悪なものだった。
かつて少年少女で世界に夢中になり、物語の住人達に一喜一憂し、出会いや別れに笑ったり涙を流してきた“私たち”を、その想い出を完全否定するものだった。
一体これは、誰のための、何のための物語なんだろう?
フィクションの世界や人生をしっかりと歩んで楽しんで笑って泣いて、勇者になって、物語を“クリア”をしたその後で「ああ、良かった!楽しかった!さあ現実も頑張ろう」と皆それぞれの現実に戻る筈だっだ。
「ドラゴンクエスト」というゲームに励まされたり大事なことを教わってきたのに、映画の中でその人生ごと全否定されるような経験を、よりによって「ドラゴンクエスト」と銘打った作品にされてしまったのである。最悪だ。
「大人になれ」
その言葉こそが監督からのメッセージなのだとしたら、子ども時代からの大切な想い出は蓋をしなきゃいけなくて、エンタメは虚構だからくだらない、と生きていくことこそが「大人」ということなのでしょうか?
悲しい、悲しすぎるね。
少しずつ抱いた“違和感”
まさかのドット文字、ゲーム画面そのままを使用し始まったオープニング。
「あーここから始めるんだ、懐かしい~」と劇場が懐かしさに包まれた。
だが、そこからがもう「ユア・ストーリー」だったんだろう。
私個人はキャラクターデザインは世界展開を狙っているような形で好きだった。ディズニーっぽいテイストは、ドラゴンクエストを知らない・プレイしたことのない層にもきっと受け入れられやすいと感じたからだ。
フローラの“可憐なお嬢様”なデザインは大変愛らしくて良いし、ビアンカのそばかすなど“積極的に外へ走り出していくような活発な女性”というイメージも最高だ。ゲレゲレ(私はいつもプックルだった)が走り回っているのもスラりんのぷるるんとしたCGも良い。
違和感を感じたのはいくつかあるが、やはり一番残念だったのは主人公である主人公の言葉の汚さ、性格の曖昧さである。
相手に対し「おまえ」という言葉を連発するし、フローラかビアンカかに対しても自身の「本当の心」なんてものはこれっぽっちも見えない。
人生を決める“結婚”というものに対し随分と軽い心持である。
モンスター相手にも逃げ腰で、父の死を超えてなお“立ち向かう勇気”なんてものを持っていない。
ああそうですね、全部VRゲームに入り込んだ一般人だったんだもんね。
子ども時代はスキップ、今回はフローラにしようと”じこあんじ”かけたんだもんね。
フローラの描かれ方はとても可愛いし、今作に関しては他の花婿候補も幼馴染のアンディも出てこないので純粋にリュカを慕っている。
フローラ派の私にとって、作った人はフローラ派かな?!と思うくらい良い感じだった。
が。
主人公はフローラと結婚することに喜び彼女にプロポーズしておきながら、宿屋であったババ様の言葉と薬で「本当の心」に向き合いビアンカを選ぶ。
その夢の中でフローラを選んだのは“じこあんじ”にかかっていたからだという描写が出てくる。
ゲームで、私は自ら選んでフローラと結婚しているの。“じこあんじ”じゃないよふざけるな。
「本当の心に気付きなさい」とおせっかいしたババ様の正体は「リュカは本当はビアンカが好きだから」と感じたフローラが変身していたのだが、リュカが本当はビアンカが好きだったなんて匂わせる描写は全然出てこないのである。
何せレヌール城がスキップされているし、結婚話の直前までビアンカ自体が出てこないので、ビアンカに対する思い入れが映画本編ではまったく持てない。
(パパスの剣を守っていたゲレゲレが、ビアンカのリボンで主人公に気付くという描写もないし…。)
フローラを運命の相手のように描いておきながら、あんまりにもあんまりな扱い。フローラもビアンカも、そんな軽い相手伴侶にするのおよしなさい、と言いたくなる。
“じこあんじ”と”本当の心”に気づくときのCG表現。
このあたりからの「まさかの嫌な予感」がラストに的中するのだけど。
ちなみにフローラとババ様の二人を演じた波瑠さん、めっちゃ良かったです。演者さんは別の方だと思っていた。
主人公がまったく魅力的ではない
声を担当した佐藤健さんはめちゃくちゃ良かったです。叫びや魔法や情けなさなど大変豊かなリュカでした。
ただキャラクターそのものは…。
ドラクエ5の主人公は、
・幼い頃母であるマーサは行方不明
・王子なのに父と旅に出て裕福な暮らしは一切していない
・父が目の前で殺され奴隷として青春時代を過ごす
・自分が勇者ではないと知る
・結婚して子どもも授かったのに妻共々石像にされ数年経つ
・妻も誘拐され何年も離れ離れ
・終盤やっと母と会うがすぐ死別
というドラクエシリーズ歴代主人公の中でもかなり過酷な人生を歩んでいる主人公である。
しかし色々物語をスキップしていたり上述した軽さや口の悪さ、弱腰のせいでまったく感情移入できない。経験して背負っているものがなにもない。
主人公には「こいつカッコイイな」とか「一緒に悲しめる・一緒に背負いたい」とか、観ている側がのめり込める魅力がないと…。
それも全部ラストの「VRゲームに入り込んだ一般人だから」に繋がってしまう。
でもね、一般人だって、仕事頑張ったり理不尽乗り越えようとしたり、伴侶や子ども、恋人や友人のために頑張ったりしているんですよ。
「頑張って」って応援したくなったり、「この人のここカッコイイな」って思う部分あるんですよ。
描かれる一般人のキャラまでをもバカにしてません?
一人一人が勇者…だった筈なのに。
誰もが勇者(主人公)になれる、それが「ドラゴンクエスト」だったのではないのだろうか。
このメタラストさえなければ
「詰め込み過ぎたね!でもCG凄くよかった、音楽最高だった!」「子ども・青年・父親時代の三部作にして欲しかったね~」という感想になっていたと思う。
ボリューム的にダイジェストにはなってしまうだろうけど、ただストーリーを順に追うだけでも、少なくとも元々のドラクエファンは懐かしくなったり、好きなキャラが動いているところを楽しめた筈なのに。
物語的にも親子三世代で楽しめる筈だった「ドラゴンクエスト」という最高のエンタメ作品。
大人たちが本気で作ってきたドラクエブランドに対し「大どんでん返し!」とドヤ顔でメタをブッ込んで物語の作品世界の根幹をブチ壊しされたのは本当に許しがたい。
メタやりたいんだったら、何の原作も持たない、監督自身のオリジナルストーリーでやってください。
私たちは、主人公の人生の苦難や喜びを一緒に体験したかった。
あの日のワクワクをドキドキを、同じ劇場にいる“勇者”たちとわかちあいたかった。
それだけだった。
あと、ゲームオタクとして、特にRPGオタクとして一言いいたい。
VRゲームの中、しかも何度もプレイしているドラクエ5に入ったらむしろ勇気が湧いてモンスター退治とか超がんばっちゃうのでは?強いアイテム見つけにいったり、レベル上げにいそしんでみたりしちゃうのでは?もしくは如何に早く低いレベルでクリアするか燃えたりするのでは?
現実世界を生き抜く“楽しみ”の中の一つに、ゲームというエンタメがある。
多くの人の人生を潤わせ楽しませてきた作品の一つが「ドラゴンクエスト」である。
「いい大人」が(も)楽しめる「ドラゴンクエスト」を、これからも愛していきます。
ドラゴンクエスト11 Switch版、楽しみにしています。ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて S | SQUARE ENIX『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて S』公式サイトです。www.dq11.jp